2014年7月7日月曜日

よろこびやしあわせとしての学びを大切にしたいですよね。

先日、わくわくする学びの場を探求するという素晴らしいコンセプトの勉強会に参加してきました。
素敵な古民家の小さな一室で、適当に座って講義を聞くという寺子屋風でした。

今回は宇宙には果てがあるかというお話と、物理学者が学会で発表する内容を感じてみようという二本立てでした。

宇宙の話は本当に面白くて、果てがなくて、人の感覚では納得しがたいものがたくさんあるようです。それでも、人間が長い歴史の中で積み上げてきた科学の叡智を総合して論理で詰めていくとこういう風になるという科学の営みは聴いているだけで知的好奇心がガンガン刺激されるしあわせな時間でした。

2コマ目の物理解題と題された時間では、まず物理学者が学会で発表する内容をそのままダイジェストで発表し、あとから解説してみようという試みでした。やっぱり本物の専門家はすごかったです。「非可換空間上の重力理論におけるソリトン解について」なんてタイトルからし推測すらできません。日本語をしゃべっているのに全く理解できないけれどもなんだか面白そうなことをしゃべっているのがわかるという不思議な状況は初体験でした。


やっぱり勉強って面白いです。



2014年6月25日水曜日

ロボットに知性を持たせるならロボットに知性があると信じるだけでいいのかもしれない

ZOOKEEPER(1) (イブニングKC)



心理学の世界では知性=感情という考え方が優勢らしいですが、この感情を持っているということをどう判断すればいいのでしょうか?

例えば、植物には恐らく人間と同じような類の知性はなく、ただ単純に自然環境に対して物理的・生理的に定められたプログラムに従って粛々と反応していると私は考えているのですが、ある種の傾向のある人は植物には感情があり人間が愛情を持って接すれば反応してくれると考えており、こういう人にとっては植物に知性があることを疑わないわけです。

こう考えれば、ロボットが知性を持つか持たないかという話はロボット自体ではなく、ロボットを認識する人間側の問題になってくるような気がするのですがいかがでしょう?


思考は拡張して、アミニズムにおける神の成り立ちなんかも、自然に感情や知性を見出したところから発生したのかもしれないとか考えると、なんだか楽しくなってきました。


『ZOO KEEPER』という漫画で「動物と通じ合えると思うな。たまたまだ」という感じのセリフが象の回にありましたが、動植物に感情があったとしても、それは人間と違う概念だろうし違う回路を通るのがほとんどだろうと私も考えています。仮に動植物にも感情があり気持ちが通じ合ったという気がしても、それはごくたまたま感情の回路が一致したか、勝手に自分の感情を相手に投影しているだけに過ぎないと思っています。

こういう考え方は科学的思考には大切だと思っているのですが、、こういう身も蓋もない考えはあんまり美しくないし、面倒くさいし、流行らないからモテないのが難点ですね。

2014年6月22日日曜日

スローフードって楽じゃない。手間ひまかけて、汗かいて。 だけど、そうやって辿り着いたひとくちには、本当の美味しさが満ちているのです。

タイトルはリトル・フォレストという漫画の作品紹介の一文です。
10年ほど前のちょっと古い漫画ですがとてもいい漫画なのです。

東北の田舎での自給自足的な生活を送る若い女性の食と日常を淡々と描いた漫画で、私はかなり気に入っているのですが、その漫画が今年の夏に映画化されるとのことです。映画版のサイトを覗いてみましたが、なかなか素敵な雰囲気で期待できそうですね。


さて、漫画読みの間では評価の高かった漫画ですので映画化されるのは不思議ではないのですが、なぜ10年も経った今なのかというのはちょっと気になります。

農業界隈に居ますと最近農業が注目されているような気がします。『銀の匙』や『のうりん』、『茄子 新装版』、『JA〜女子によるアグリカルチャー〜』など漫画だけでもいくつかの作品が最近出てきましたし、映画でも『ウッジョブ』が公開されたりしてますね。

こういう傾向を見ていると、田舎志向や自然回帰的な生活が求められてきているのかなと感じます。経済的な成長に限界を感じ、都会的な暮らしに息苦しさを感じる人が増えてきたことの反動なのかもしれませんね。

まあ、こういう作品は基本的にきれいな部分だけしか切り取らないので、実に魅力的に感じてしますが、現実にはやっぱり田舎には田舎なりの苦悩や息苦しさや問題があるわけで、遠くにあると大抵のものはきれいに見えるんだなと思いました。


ちなみに、私は「ぬてら」のエピソードが好きです。何回読んでも笑ってしまいます。


2014年6月18日水曜日

人は舌で味わうことはできないのかもしれない




この動画。衝撃的ですよね。

豚足や明太子を言葉でアメリカ人に食べさせる。

うまいと思えないものをうまいと思わせる。

言葉ひとつで世界が変わる。自分の言葉が未来を決める。



実に素晴らしい。

人は脳で食べているということを実証されたようです。


これを喜んでいいのか、悲しむべきなのか。

少なくとも、生産者を目指す者としては、おいしいものをつくることにこだわるよりも、ことばを重ねて想いを伝える方がおいしいと感じてもらえるとしたら、やっぱりそれはくやしいと思うのです。

もちろん、商売としては全く正しいやり方なので、効率的に伝えることができお互いの需要を満足させることができるならば、それはそれで万々歳なわけですが。

それでも私は、人間ってそんなに単純でいいわけがないだろうと願っているので、まずは舌で味わいたい、味わってほしいと思うのです。その上で、言葉や関係性を楽しみたい、楽しんで欲しいと思うのです。

ただどうしても、今は言葉の方が圧倒的に強い印象を受けます。この現状をどうやって私の祈りに近づくようにデザインできるかが私の課題なのです。

2014年6月9日月曜日

人は他人を結構いい加減に認識してるらしい

髪の毛をものすごく短くして何日か経ちましたが、会う人会う人にいちいち髪切った理由を聞かれるので面倒くさくて、髪を切ったことを若干後悔しています。まあそろそろこの面倒臭さもなくなるでしょうけどね。それにしても、なぜほとんどの人が「なにかやらかした?」と聞くのでしょうか?

それはさておき、髪を切っておもしろい発見がありました。

断髪後に初めて会った人たちは、①なんとなく私を認識した後、②違和感を感じて凝視し、③髪の毛が短くなっていることにここで初めて気づき、④その変化に驚くんですよね。普通に挨拶したあとにハッと目を見開いて驚くという、このタイムラグというか、その過程がすごく面白いです。
それが数人ならまだしも、ほぼすべての人達が同じような反応を見せます。もちろん反応を控えめに抑える人や、まったく驚きを隠さず根掘り葉掘り理由を聞いてくる人もいますけど。

こういう反応を見て、改めて「人は見たいものしか見ていない」のだなと感じました。

まあ、逐一周囲の些細な変化に対応していてはキリがないし、多様な個々を同一の概念として認識することができるというのが人間特有の能力ですからね。なんとなく雰囲気で円滑にコトが進むならそれはそれで無問題ですからね。
まあ、日々の細やかな移ろいを感じることができる感性というのも憧れますけどね。


しかし、こういう意外といい加減な認識で普段のコミュニケーションが成り立っているというのはおもしろいなー。

2014年6月8日日曜日

違う世界で違う言葉を使う人達と対話するための言葉があったらいいのにね

なにやら「これ見ても肉食べたい?」というツイートが話題のようですが、こういう輩やこういう輩に噛み付く繊細チンピラを見かける度に想像力や多様性やらについて考えさせられます。

ここまで想像力に欠けた発言を連発されると、動物愛護者へのネガティブな感情を増長させるための工作員じゃないかとむしろ逆に疑ってしまうのですが、残念ながら善意からの発言なんでしょうね。こういう方向性が間違った一方的な善意ってのはとてもやっかいで、賛同しない奴はみんな敵でみんな馬鹿だと思い込んでいるので、どうやってコミュニケーションをとればいいのか全然わかりません。

一番楽なのは飽きるまで放置しておくことなのでしょうが、飽きるまでに撒き散らす無邪気な善意も、その善意に噛み付く被害者意識も啓蒙意識も、あんまり社会を幸せにしないのでなんとかしたいのです。

こういう人たちと会話する言葉が欲しいなあ。

2014年6月5日木曜日

髪型と性格は結構リンクするかもしれない

一年半ほど伸ばしっぱなしにしていた髪型に飽きたので思いっきり切りました。
恥ずかしいので写真は載せませんが毛を刈られたアルパカくらい刈りました。
やっぱり短いと気持ちいいですね。風を頭皮で感じますね。

これまで何回かちょんまげが結えるくらい伸ばしたり、逆にスキンヘッドにしたりと割と髪型を大きく変えてるのですが、髪型が変わると性格というか心持ちも連動して変わる気がします。
少なくとも私の場合、髪を長く伸ばしてる時は割と保守的な性格になって慎重になるのですが、坊主に近いくらいに短いと割と積極的な性格になります。

髪型一つで性格が変わるし、それを通してみる世界も変わるんですよ。

人間って面白いですよね。

2014年6月1日日曜日

かないくん展と死と彼女とぼく



かないくん展に行きました。
谷川俊太郎が一晩で書き、松本大洋が2年かけて書いた絵本の原画展です。
小さな展示でしたがとても良かったです。

特にぐっときたのが下の写真にある黒板とノートなのですが、いろんな人が様々に死と向き合っていたのが印象的でした。

私は幸いな事にこれまで死と向き合う機会というのは祖母の時くらいだったのですが、祖母の時は気持ちの準備する期間が十分にありきちんと付き添うこともできたので、ごくごく当然のこととして受け止める事が出来ました。
しかし、ノートに書いている人の中には唐突に死と対面しなければならない状況に陥る人もいて、そういう人たちがどうにかして身近な死と折り合いをつけようとする過程が割と生々しくノートに綴られていました。そういう文章を読む中で、こういう風に無責任に匿名的に吐き出す機会が必要とされているということが、この企画展が支持される要因かもしれないと感じました。
黒板の方は割とカジュアルな死生観が書かれていて、特に小さな子どもは天国と地獄を信じているのに対し、大人は無になると考えている傾向があったのが面白かったです。
私はどう考えているのでしょうかね。無とは考えられないのですが、あんまり続いていくとも思えなくて、ぼんやりとどこかを漂うことになるようなイメージでしょうか。あんまり苦しいことはなさそうですが、あんまり楽しい感じでもない気がします。
うーん、あまり明確にイメージ出来ないのはまだ死を身近に感じられないからでしょうね。
だからこそ、まだ見慣れない死と向き合ういい機会でした。

ちなみにタイトルの『死と彼女とぼく』はとても素敵なホラー漫画ですが、あまり関係はありません。










2014年5月28日水曜日

考えよう。素晴らしい言葉がパッとひらめくほど、僕らは天才ではない。 『言葉の技術』



薄っぺらいと見せかけていい本でした。



この本は現役のコピーライターの方が書いたコピーの書き方の本です。
この本を要約すればタイトル通り「考えろ」の一言です。


僕らは、僕ら自身のオリジナルな言葉を探すには忙しすぎる毎日を送っています。だからこそ、オリジナルな言葉を時間をかけて探すコピーライターという商売が成り立つのだと思います。

本当は、タイトルに言葉の“技術”とあるように、コピーをつくるにはいくつかの方法というかテクニックがあって、時間さえかけてじっくりと考えることができれば、ちゃんと相手に届く言葉を見つけることができるはずなのです。“技術”なので訓練次第で言葉は、コピーはある程度まで上達するはずなのです。

でも、現実にはそんな時間はないし、ネットには沢山のそれっぽい言葉が溢れているので、ついついパッと思い浮かんだ、それっぽい、薄っぺらい言葉しか見つけられないことに絶望し、伝えることを諦めてしまうか、独り善がりになってしまうか、さっさとプロに任せてしまいます。

それが悪いこととはいいませんが、実際にやってみてわかりましたが、コピーをつくるということは結構楽しいものです。特に、届けたい人のことを考えて考えて、良いものができたらとても嬉しいのです。


さて、最後にコピーをつくるにあたってのヒントですが、
この本の最後に書いてありますが、コミュニケーションの要は送り手ではなく受け手であり、どういうリアクションをしてもらいたいのかを考えることが大事なのです。

最終的な目標は、言葉によって人と人との良い関係をつくることであり、そういうことを自覚していれば、何かに固執することもなくなり、自由にコピーをつくることができると思いました。











2014年5月26日月曜日

違和感を感じないことへの違和感

100円朝食で学生応援 学食、習慣づけへ提供」という記事を見つけたのですが
この写真に違和感を感じませんか?

写真・図版



この朝食提供の目的は、規則正しい生活の習慣化や講義出席率の向上だから直接的には関係ないのですが、どうしても私は配膳の位置に無頓着なことが気になるのです。もっとお上品な言葉を選ぶなら、こういう無頓着さにイラっとするのです。

副菜の位置は諸説あるようですが、ご飯と汁物の位置は一般的に決まってますよね?さらに箸の位置もナイフやフォークじゃあるまいし横に置くってのもいかがなものかと感じるわけです。

そもそも食事の作法やら文化やら形式は、長い歴史の中で合理的な理由で洗練されてきたものであると私は考えています。それにも関わらず、それに無頓着であるというのはちょっとどうかと思うのですよ。
特に、新聞記事が公開されるということは、大学の広報から記者、編集部、印刷のような感じで、とても多くの人が関わっているはずなのに、この写真がスルーされるというのは気持ち悪いし残念だと思うのですよ。



大体こんな配置だと食べにくいと思うんですけどね〜

2014年5月23日金曜日

顧客目線で考えるということ

毎月参加が恒例になってきた代官山マルシェの準備をしています。
今回は一緒にアメリカで農業研修をしてきた友人のミニトマトを売らせてもらうことになりました。

で、そのまま売らせてもらうのでは全然面白くないのでパッケージはこっちで任せてもらうという形にしたのですが、これが難しいんですよね。
儲けを考えるとあんまりパッケージにお金はかけられないし、そもそもどれくらいの量が適切なのかが想像できないのです。正確に言えば、いくつかのターゲットは想定できるのですが、本当にその仮定が正しいのか、想定通りに購入してくれるのか全然自信がありません。まあ売るまでわからないというのは当たり前のことですが。

というわけで今回も試行錯誤で頑張ります。



2014年5月21日水曜日

真の愛を知るために生きること

「神が愛と神が愛だと言うのなら、我々は神になるべきだ。さもなくば…我々人間はこれから先も永久に、真の愛を知らないままだ」


今日の特別講義の時に、講師の方に「あなたはなぜ生きているのですか」と問いかけられた時にぱっと思い浮かんだことが、『プラネテス』という漫画に出てくるセリフでした。

真の愛を知るために生きるというのは、私にとってかなり自然な考え方です。
この場合の愛が、何を指すかは人それぞれ解釈が違うと思いますが、私は真の愛とは全知であり、究極の到達点だと考えています。我々人間は神(=愛=全知)になるために命をつないできたんだと思います。そして私も人類が全知に近づくために生きているのだと思います。だからこそ科学コミュニケーションやコミュニケーションデザインに興味をもつのだろうし、無自覚に社会のリソースを浪費することに怒りを感じるのだと思います。

私たちが世界を正しく認識し、浪費していたリソースに方向性を与えることができたならば、それは人間を先に進めることができる大きな一歩になると信じているのです。そして、そのような確実な一歩を積み重ねていけば、私たち人間はいつか真実の愛にたどり着くのではないでしょうか。

だから私は一歩でも高く遠く進んだ世界を次の世代に引き継ぐために、頑張っているつもりなのですよ。

2014年5月19日月曜日

エクセル方眼紙からコミュニケーションを考えた

エクセル方眼紙ってご存じですか?

表計算ソフトであるはずのエクセルを方眼紙のように設定して、あたかも文書ソフトのように使う日本独自の、というかお役所独自のというか、とても不思議なフォーマットなのです。

こんなのとか




こんなのです。




私はこのエクセル方眼紙を大層憎んでおりまして、事実上データの修正や再利用ができない、バージョンが違うと100%に近い確率でレイアウトが崩れる、ワードやエクセルが使える人ばかり作業的・精神的被害を被るなど、百害あって一利なしの唾棄すべき悪習と考えております。

しかし、この感覚がこれを使ってる人には伝わらないんですよね。

エクセル方眼紙を使うことは未来へのコストであって、結果的に社会全体のパフォーマンスを下げるということを理解してもらうためにはどうすればいいのでしょうか。


まおゆうに「損得勘定は我らの共通の言葉。それは天と地の間で二番目に強い絆だ」というセリフがありましたが、社会的な損得勘定を可視化してわかりやすくプレゼンしたらいいのでしょうか。しかし、そもそもその損得勘定が通じるのならば既に説得できているはずですし、そもそもエクセル方眼紙なんて使わないと思うんですよね。恐らく彼らがエクセル方眼紙に固執する理由は「慣れ」であり、それっぽく見えて(彼らに直接的な)問題が起こったことがない(もしくは気づいていない)という、目の前の損得勘定だけがそこに働いているのだと思われます。

つまり、いくら社会のコストだよと言ったところで本人にはコストとして感じられないのだから、ワードを使おうとする動機がないんですよね。ということは、やはり本人の損になるような負のデザイン、もしくはワードを使ったほうが得するような直接的でわかりやすい正のデザインすることが大切なんでしょうね。そして、負のデザインは後ろ向きで面白く無いので、やはり自主的に全体として良い方向へ向かうような前向きなデザインを考える必要があるんだと思います。


でも、このデザインが難しいんだよなー。
コミュニケーションを通して共感しながらつくり上げていくってのが理想なんでしょうけどねー。けどねー。

おや、こんな時間に誰か来たようだ。


(日記はここで途切れている)

2014年5月18日日曜日

小学校の朝礼の動画を見つけて思ったこと

とりあえず動画を御覧ください。








どう思いました?



私はすごく気持ち悪くなりました。

こういう無邪気な同調圧力は悪意がない分厄介で手に負えないと思うのです。もし、こういうことが苦手な生徒がクラスにいたとしたらどうしましょう。「いいこと」だから、「将来の役に立つ」だろうから、恐らく拒否権なんて存在しないはずです。嫌だ、苦手だ、気持ち悪いという感情すら理解されないんじゃないかと思います。もしくは、参加を拒否することは、和を乱すとか参加者を否定するとか言われて糾弾されそうだなと思いました。

少なくとも私は、こういう意味のない挨拶や掛け声は理解できないので苦痛ですし、大声を出すのも嫌いですからやりたくありません。そして、これまで頑張って薄かった面の皮を厚くしてきたので、今なら堂々と拒否することもできます。

でも、これを嫌だと思っても拒否できない子供がいたらと思うと居た堪れないのです。そして、そういった想像力を感じさせない指導者や子どもたちや投稿者が気持ち悪いと思ったのでした。

もちろん、私はこの行為を否定しているわけではありません。個人的には全然好みではありませんしどんな手段を行使しても絶対に拒否したいとは思いますが、やりたい人たちが集まって勝手にやるのは全然構いませんし、それを否定すべきではないと考えます。毎朝床をどんどん鳴らして大声で騒ぎやがってうるせえなあ、くらいは思うでしょうが我慢します。

ただ、そこに拒否権が存在しないとしたらそれは否定されるべきだと思うのです。個人の意志を無視してまで強制する合理性が感じられないことを許してはいけないと思うのです。



まあ、もちろん私の感想は動画の情報のみから邪推した感想ですので、実際には苦手なこどもには配慮されているのかもしれません。クラスのみんなは心からやりたくてやってるのかもしれません。

でも、そうだとしたら、それはそれで気持ち悪いクラスだなーと思いました。

2014年5月17日土曜日

たくさんの点は線になって

最近いろんな点がつながってきたなーと感じています。

これまで随分寄り道をしてきましたが、その全てが意味のある点になってきた気がしてるような、そう信じたいような、そんな感じです。

そのうち、いくつもの線が円になって遠く彼方まで響いて、全てをつなげることができればいいなと思いました。

2014年5月14日水曜日

やっと世間が野崎まどに追い付いてきました

品川のあおい書店で野崎まどフェアやってました!

好きな作家が推されてると嬉しいですね!

というわけでちょっとそれぞれについて一言紹介を。
そのうち全部についてじっくり紹介したいですね。
ちなみに順番は出版順です。


『[映]アムリタ』
映画を作る大学生の話。と見せかけたSF的ホラー小説。
最後のシーンなんて何度読んでも背筋が寒くなります。

『舞面真面と仮面の女』
遺産をめぐるミステリー小説。って書くと面白くなさそうですね。
でも野崎まどお得意の大どんでん返しが楽しめます。

『死なない生徒殺人事件』
永遠の命をもつ女子学生をめぐるミステリー。
何のために永遠に生きましょうか?

『小説家の作り方』
創作とはなにかに迫るSF。じゃなくてやっぱりラノベですね。
作者のキャラ理論が面白いです。

『パーフェクトフレンド』
友達ってなんだろうと考えさせられるラノベ。
友達も魔法も悪魔も同じカテゴリーなのですよ。

『2』
この世で一番面白い映画を作るお話。
と見せかけて実は単なる壮大な恋愛小説だったと3回位読んで気づきました。
上記5冊を読んでいないと十分に楽しめない鬼畜仕様なのでお気をつけ下さい。
野崎まど第一部完。

『なにかのご縁』
野崎まどの新境地、通称白まど。なにが白いかは読んでからのお楽しみ。
ふわふわしたファンタジーも書いてしまう著者の幅の広さには驚愕。

『野崎まど劇場』
真剣にふざけた短篇集。AA使った小説はじめて見ました。
個人的に没作品集が好き。

『know』
ハヤカワ文庫から出版のSF小説。評価もかなり高いようです。
最後の一文が秀逸なんですよ。

『ファンタジスタドール イヴ』
一応、萌系アニメのノベライズ版。でも本作には萌え要素は全くなし。
これ読んでもどんなアニメか全然想像できません。



2014年5月13日火曜日

相撲は神事

初めて大相撲を生で観ました。
正確には先日のニコニコ超会議場所を立ち見でちらっと観たのですが、まあそれはノーカウントで。

とりあえず、格闘技としてすごかった。
私は格闘技をやっていたのでなんとなくわかるのですが、あの人達相当鍛えてますよ。あんな動きやあんな耐久性を普通の人間でも訓練しだいで獲得できるのかと思ったら感動してしまいました。

あとはやっぱり、相撲は神事ということを心で理解しました。
取組中もそうですが、その前後での所作の端々に、神道的な、信仰のようなものが感じられます。あまり具体的に指摘はできないのですが、恐らく力士たち自身もあまり意識していないと思うのですが、やはりあれは神事から発展してきたんだろうなと思わせられました。
特に最後の弓取り式なんて、わかりやすいくらい神事ですよね。序盤でカメラの電池が切れたので写真が撮れなかったのが残念ですが、本当に弓取り式は鳥肌が立つくらいすごかったです。


こんなに面白いものが未だに日本に残っていることに感謝した一日でした。


2014年5月4日日曜日

「安全」でも得られない「安心」 『安全と安心の科学』

この本は人間賛歌の物語だと思います。

人間の可能性を信じて、本当に安心できる安全な未来を目指すために、私たちは何ができるか。それを考えるために、小さいけれど確実なものを丁寧に丁寧に積み重ねていくその方法をこの本は教えてくれます。

人間のもつ「リスクに立ち向かう」営みを知って下さい。もちろん私たちの力は知れたものです。先の震災でも、毎日どこかで起こっている交通事故でも、そのことを思い知らされています。科学や技術は私たちに「絶対安全」を約束してはくれません。

それでも、全てを諦めるのではなく、できることを探し出し、一歩でも前進しようとすること、そして時に人間の力の卑小さと自然の力の大きさの前に頭を垂れること。

この繰り返しこそが、人類が刻んできた歴史そのものとも言えると思います。

私も、著者と同様に、人間のそうした存在の形を受け入れ、また信じたいと思います。



2014年5月3日土曜日

私たちは質の劣る高水準の暮らしを強いられている? 『美 「見えないものをみる」ということ』

『美 「見えないものをみる」ということ』とはどういうことでしょうか?

私たちはどんなものを美しいと感じるのでしょうか?

真善美という言葉がありますが、この3つの価値は全てが等価で必要十分なのでしょうか?

すべてのものごとがリッチであるためには、なにが必要なのでしょうか?


この本は、このような普段は意識しない、面倒くさくて考えない、万人が納得する答えが出しにくいことを考えさせられる本です。その過程は、日本人としての、世界市民としての、自分自身としてのアイデンティティを確認することでもあるような気がします。とても難しくて面倒でしんどい作業ですが、これからの世代を引き継いでいく者としての責任があると思うのです。


そんな中で、おそらくは正しいだろうとわかったことはあります。

それは「知」や「教養」といった、判断するための判断基準が絶対に必要だということです。

もちろん、そのような判断基準は一朝一夕には身に付きません。
どのように身に付ければいいかも検討がつきません。
そもそもどのような知や教養なのかすらわかりません。


Q:さて、そんな時はどうしましょう?

A:じゃあ、明日また考えよう Sleep it over.


2014年5月2日金曜日

何で、、、何でよりによって料理中のサンマがああ 『幻想ギネコクラシー』

この本は、「身も蓋もないお話を描かせたら当代随一」との帯の煽り文句にもあるように、本当に身も蓋もないお話ばっかりの漫画なんですけども、とてもいいんですよね。

他の作品もなかなか素晴らしいのですが、この作品は特にとても自由に楽しんで書いているということが伝わってきて、読んでるだけで楽しくなる漫画なのですよ。もちろん好き嫌いがありますし、この人のマンガ自体が一般受けはまずしないだろう作風なので、これもあんまりおすすめはしないのですが。それでもこの作品は、著者の魅力を凝縮した一冊だと断言できます。すべての方面に突き抜けてぶっ飛んで戻ってこれなくなった漫画です。


そんな全くおすすめできない漫画ですが、久しぶりにいい漫画を読んだなと不覚にも思ってしまったため、つい紹介してしまいました。

最後に、重ね重ね申し上げますが、この人の漫画は漫画読みにしかおすすめできません。青年漫画という表現に慣れていない初心者の方は決して手を出さないようにして下さい。不快になっても、深みにハマっても、責任は持てませんので。


幻想ギネコクラシー 1

2014年5月1日木曜日

フードを粗末に扱う、という最小の暴力で最大の悪人ぶりを表現できる 『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』

『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』は物語の演出として登場するフードが効率的に印象的に無意識的に鑑賞者をある方向へ導くという仮説を理論化し、もっと深く物語を味わおうと試みるという非常に興味深い考察をまとめた本です。


バナナの皮を踏んで滑って転ぶ、トーストを咥えて走ると曲がり角で素敵な異性とぶつかる、おっちょこちょいが膨らますガムは必ず割れて顔面に張り付くなどなど、どこで読んだか何で観たかは思い出せないけれども絶対知っていると思えるような食べもののシーンはありませんか?

著書ではこういう食べものや食事のシーンをステレオタイプフードと呼んでいますが、著者の提唱するフード理論にはそのステレオタイプフードが非常に重要な役割を果たすのです。


さて、フード理論は基本的に以下の3つの原則から成り立ちます。

1:善人は、フードをおいしそうに食べる
2:正体不明者は、フードを食べない
3:悪人は、フードを粗末に扱う

それぞれに科学と心に基づいた説得力のある論拠があるわけですが、それはぜひ本書を読んでみて納得してみてください。

この本を読むことで、これから鑑賞することになる全ての作品において、食べものや食事のシーンに見入らざるを得ないという呪いを受ける危険性はありますが、それ以上にそれぞれの作品に対する深い理解や感動を得ることができると思います。


2014年4月30日水曜日

憎くもないのに殴るって、すごく難しい。 『わたし、狩猟始めました』

わたし、狩猟始めました』は、都会で暮らす普通の女性が震災を機に生きることに向き合う過程で、生活としての狩猟を始めるまでの心の動きを丁寧に綴った本です。

少々情緒的すぎる部分も無いことはないですが、本当に普通の感性を持った女性が、生きている動物を殺し、解体し、食べるという一連の過程で感じたことを、過不足なく、押し付けがましくなく、ありのままに表現されています。


「自分の暮らしや幸せを人任せにしておくことが、どれだけ不安定で無責任なことか、痛感したのです」

という一節は、特に共感出来ました。

私もかつては狩猟免許を持っていたこともあったり、ニワトリやシカやウサギを自分で解体して食べたことがあります。また、農業経営者を目指しているので、農作物を自分で育てて食べるという過程も経験しています。

それらの経験から、自分の暮らしや幸せを、一部でも自分の手でつくり上げることができるという状態、せめてある程度自分のコントロール下にある状態であるということは、とても楽しいことでありとても気持ちが楽なのです。不安なことはたくさんありますが、最悪の状態に陥ってもなんとかなるだろうと思えるのです。

その意味で、一度ニワトリを自分の手で殺して食べるという経験は大切だと思います。普段は誰かが肩代わりしてくれているその負担を知ることで、他の人へのおもいやりやすべての生物に対する想像力に触れられるのではないでしょうか。

2014年4月29日火曜日

カオスな空間って全然悪くない



先日ニコニコ超会議3に行ってきました。

ニコニコ動画を地上に再現するというコンセプトなので、どんなにカオスな状況になるのかは代替想像がつくと思いますが、まあ本当にカオスです。

どう考えても発展性のないことにものすごいエネルギーを費やした作品なんかを見ていると、これらのエネルギーを集約して方向性を与えれば、世界なんて簡単に平和になっちゃうんじゃないかと思うんですが、多分方向性が制約されないからこそ発散させられるエネルギーなんでしょうね。
もったいない気もするけれども、多分使いようのないエネルギーであって、それならばこういう公然と発散できる場ってのは必要ですよね。


いずれにしても、共産党と在日米軍と非実在青少年とが同じ空間でニコニコできるお祭りってなかなか無いと思いますので、これからも世界平和のために続けてほしいと思います。まる






 

2014年4月28日月曜日

ニンジンを好んで食べる人は存在するか

先日マルシェでニンジンを売っていた時に思ったんですけど、

「あなたはニンジンを義務感で食べていませんか?」


というのも先日のニンジンは雪下人参という珍しいニンジンで、秋に収穫せずに雪の下で越冬させて春に収穫することで、ニンジン臭さが全くなくなり甘みだけが残るという不思議なニンジンなのです。

正直な所、私はあまりこのニンジンは好みではありません。ほのかにニンジンの香りがする甘いだけの野菜なんて別に食べなくてもいいかなと思うのです。ニンジンのクセがあってこそ甘みも引き立ちますし、ニンジンの存在意義や食べる意味が出てくると思うのです。売り文句は「ニンジン嫌いの子供でも食べられる」「クセがなくどんな料理にも合う」なんですが、ニンジン嫌いなら食べなくてもいいし、どんな料理にも使えるのならニンジンでなくてもいい気がするのです。カロテンとか食物繊維とか諸々のビタミンなら他の野菜でも代替できると思うのです。

そもそも「食べられる」「クセがない」と表現する時点で、元々ネガティブな評価があるという認識が内包されていませんか?そこには食べようとする積極性が感じられないのです。体にいいから、彩りがきれいだから。そんな理由でニンジンは消費されているような気がするのです。

サツマイモは「甘い、おいしい」という積極性が前面に発揮される作物であって、売り方も「甘い、おいしい」だけでも十分差別化できる気がします。だって、サツマイモも含めて、甘いモノって必要なくても食べたくなりませんか?

それに対して、ニンジンやコメやコマツナなどは、あんまりその積極性を多くの人が持っていない気がするのです。義務感からこれらの作物を食べている気がするのです。この辺が、「甘い、おいしい」だけでは差別化が難しく、消費者に選んでお金を出してもらうまでがとても大変な理由なんじゃないかなと感じました。


一番簡単なのは、値段を下げること。しかし、それじゃあ面白くないし、プライドを持ちにくい。というわけで、いかに価値を伝え見出してもらうかということが大切になってくるわけですが、これが一番難しいんだよなー。


2014年4月27日日曜日

代官山マルシェ 二日目 連敗記録更新

二日間のマルシェが終わりました。
今回で二回目の出店でしたが、色々と課題が見えてきました。

顧客がグッと来る商品の提案ももちろん課題は山積みなのですが、今回は特にサークルとしての今後の運営方針を決めなきゃいけないなということを責任者として参加して感じました。


商品を出す学生は、雀の涙程度ですが多少なりとも利益があるわけで、なにより自分の所の商品なので売るというモチベーションが高いわけです。もしくは、商品だけでも出せば、それなりに売り子が売ってくれるわけで、マルシェに参加し続けるハードルはものすごく低いのです。

それに対して売り子としてだけ参加する学生は、最初は売って消費者と直に接するという体験自体が報酬となるのですが、回数を重ねていく毎に慣れが生じて、だんだんと売るモチベーションが少なくなっていきそうな気がします。もちろん、毎回毎回、お客様毎に試行錯誤して対応を研鑽していくのでそれ自体の楽しさはあるのですが、休日を潰しての参加や成果に対する報酬のない状態はあまり長続きするようには思えません。


生産者目線から見ると、小売は仕入れてただ売るだけなのにマージンを取り過ぎだと思えた時もありましたが、小売の目線で見ると、それなりの対価がないと人の商品なんて売れないよなーというのが実感でした。




2014年4月26日土曜日

代官山マルシェ 一日目 絶賛連敗中

代官山マルシェに参加してきました。

先月に引き続き、学生有志での参加です。
私は農家のこせがれではないので売り子としての参加でした。


いやー、それにしても売るのってとっても難しい。前回でも痛感させられて、今回もそれにできる限りの対応をしてきたつもりですが、やっぱりマルシェはそんなに甘くなかった。
もちろん売るのが難しいということはわかっていたことなんですが、それでも体験するとなかなか精神にきますね。

私とは違う価値観を持つ人たちにどうやって私の価値観をわかってもらうか、どうやって私の価値観を伝えるか、受け止めてもらえるか、というのが大事なんだと思います。

ある意味ではエゴの押し付けを、いかに雅に、いかにエレガントに、抵抗なく、まるで自分から進んで受け入れたかのように錯覚させることができることを目指すべきなんでしょうね。


さてさて、課題は山積みですが、明日も元気に試行錯誤でもがいてみましょう。





2014年4月25日金曜日

世の中のど真ん中という感覚が大事なのです

コピーライティング講座というものに無料で参加できるという情報を入手したので、授業終了後に参加してきました。

現役バリバリのコピーライターの方々が講義をしてくださるというなかなか贅沢な講座で、2時間という短い間でしたが、とても勉強になりました。


特に印象に残ったのが

自分の好きなものではなく、良いものを選ぶこと。
良いものとは、世の中の8割が共感してくれるであろう常識に則ったもの。

ということでした。

自分でつくったコピーはとても可愛くてなかなか客観的に評価するのが難しいのですが、プロの方々は幽体離脱と時間を置くことでそれに対応しているそうです。


「ものごとを整理し、言葉でまとめ上げる力」は今、私が最も必要としている能力だと思っています。
一朝一夕には身につかない能力ですが、訓練しだいである程度は上達するそうなので、頑張ります。

2014年4月24日木曜日

不思議な見た目の魚はうまいかまずいか両極端のような気がする

この生物をご存じですか?



ヤガラという魚です。頭だけです。
これまでちゃんとヤガラ味わったことがなかったので手に入れてきました。
もちろん頭以外も付いてますよ?

さばくのはそんなに難しくもないですが、くちばしが長いだけあってちょっと歩留まりが悪いという印象。関西方面では高級魚として扱われているようですが、関東ではあんまり知った人がいないようでそんなに高くはないようです。
それにしても、不思議な外見ですよね。

さてさて、早速刺し身と潮汁で食べてみましたが、これがすごくおいしい。上品な白身で脂がしっかりのっていて、このグロテスクな魚が珍重される理由が分かりました。

魚も知らないことだらけで面白いなー。



2014年4月23日水曜日

しらすモンスター

シラスはカタクチイワシの稚魚がほとんどらしいのですが、実際には色々な生物が混じっています。

今回はエビとタコ、それに何の稚魚かもわからないレプトケファルスが入っていました。それぞれを味わうと違いがわかって面白いですが、大抵は1%(当社調べ)程度しか混入していないのでほとんシラスの味しかわからないと思います。

こういうのは味ではなく発掘する喜びや楽しさってのが提供できる価値なんでしょうね。


2014年4月22日火曜日

トスカーナ!

夜中に中原区を歩いていたら、いつの間にかトスカーナにたどり着いてしまいました。





2014年4月21日月曜日

刺激物を食べる

今日は毎月恒例ヤマトコトバの勉強会でした。
そしてこれまた恒例の会場近くの24時間営業中華料理屋での直会でロシアンルーレット水餃子をやりました。

ロシアンルーレット水餃子という名前でお分かりかと思いますが、水餃子の具が唐辛子のものがあり、これを含めた数皿をミックスして食べるという単純なものです。大体いつも会後の直会は2,3人なのに対して唐辛子水餃子は最低3つあるので毎回必ず当たるのですが、今回は2つ引いてしまいました。

この唐辛子水餃子はびっくりするくらい辛くて、あまりの辛さに一重の師匠が二重になるくらいの威力があるわけで、食後数時間たってもなんだか胃がチクチクしています。

どうして人は好んでこんな辛くて辛い刺激物を食べたがるのでしょうか。全く理解不能です。そういえば、アメリカで一緒に働いていたメキシカンたちも辛い辛いと泣きながら毎食唐辛子をかじっていたのを思い出しました。



ちなみに下の画像は適当に拾ってきたやつですが、こんな感じで外見からは全く見分けがつかない恐ろしい餃子です。


2014年4月20日日曜日

農業簿記検定の結果が出ました!

先日受けてきた罷業簿記検定3級の結果が届きましたよ。


結果はほぼ予想通りの合格でした。
25問中の22問正解なので悪くはないですね。計算問題さえしっかりできれば3級はほぼ合格できそうな印象でした。

でも、大事なのは合格することじゃなくて簿記の考え方を経営に反映させることですからね。こんなところで満足してるわけにはいきません。

というわけで稲森さんの『実学』を改めて読み直してみたいと思います。


2014年4月19日土曜日

左から右にうろうろと

今日は朝から晩までいろんなイベントに参加してきました。

まずは日本でもかなり左寄りなイベントに。素足でヒッピー的格好をしたにいちゃんがセージの煙をまき散らしながら歩いていたり、クマの着ぐるみ着た集団がリコーダーを吹いていたり、意識の高い学生団体が議論を交わしていたりとなかなか盛況でした。

お次は、師匠いわく日本で最も右寄りの由緒ある勉強会でした。平均年齢が農業界よりも高そうでしたが、面白い世界でした。

そして最後は、きゃっきゃうふふの真ん中に戻って、おいしい飲茶や草餅を食べてきました。


今日は身体的にも精神的にもあちこち動きまくった一日でした。

2014年4月18日金曜日

タダのモノに値段がつくということ

雑貨屋さんで面白いものを見つけました。

「ドングリの発芽観察ポット」だそうです。

無料のドングリ3個に水分保持のためのコケとそれっぽいポットがパッケージングされた状態でお値段たったの1,260円。

実に素晴らしい商売だと思いました。すごいアイディアだと思います。その発想はなかった。


こういうものを実際に見て、まだまだ農業でも農産物でもいくらでもやり方があるんだなと痛感させられました。


2014年4月17日木曜日

個食化の極地?

ものすごくお腹が空いてふらっとラーメン屋に入ったらすごいシステムでした。

全席がお一人様用。会話せずに注文できるシステム。目の前のすだれや両側の高い仕切りで、客とはおろか店員とすらも顔を合わせずに済む環境。メニューを多様化せずラーメン一本に絞り込んでいるという割には、細々して考えるのが面倒な注文票。etc.

個食化もここまで来たか。。。と、ものすごい衝撃を受けました。
ここまで隔離された環境を用意してまでラーメンを食べたいという欲求は正直理解に苦しみます。味わうことに集中して欲しいとのことですが、本当にこのような環境が必要なのでしょうか?


食べものはコミュニケーション・ツールでもあると考えていた私にとって、このシステムは本当に驚きでした。
もしかしたらSNSなどで他人とつながる環境が整ったから、こういう形態が支持されるようになったのかもしれません。このように個食感を強調することで、他人とコミュニケーションしたいという欲求を高めているのかもしれません。「関係性の欠如」という関係性ということを考えると、極端に集中を強いられる環境であるが故に美味しく感じるということもあり得ないことはないかもしれません。


うーん、やっぱり東京は面白いですね。


 


2014年4月16日水曜日

できなかったことができるようになることの喜び

ちょっとした発表用のパワーポイントを作っていたら、他の仲間に触発されていたこともあって少しずつ作り込みがエスカレートしてしまい、ついにはパソコン3台を駆使して音声とBGMを付けて全自動化してしまいました。

動画共有サイトに上がっているようなものに比べたらチープすぎる出来栄えですが、グーグル先生だけを頼りにいろんな素材やフリーソフトを駆使して作り上げたという達成感はなかなか良いものです。

今回は初めてなので結構時間がかかりましたが、次になにか作るときはもう少しスムーズにできそうです。


2014年4月15日火曜日

「食べもの」の本質は関係性 『まんがキッチン』

『まんがキッチン』は食べものという視点から名作少女漫画を読み解くという面白い試みの本なのですが、ここに取り上げられているマンガを全部読んでみたくなりますし、今度からはどんな物語であっても食べものが登場したら最後、その意味を考えずにはいられなくなるという呪いをかけられる危険な本でもあります。

個々の作品の解説や登場する食べものからの深い洞察はとても刺激的で腑に落ちるものなのですが、今回は後半の対談に登場する「食べものの本質は関係性」という著者の意見について考えてみます。

お菓子研究家でもある著者の福田里香さんは漫画家の羽海野チカさんとの対談で
「私は、食べものをおいしいと思う気持ちの80%くらいは結局勘違いと気のせいだと思うんですよね。(中略)。「食べもの」の本質は関係性なんだと思います。」
と言っていますが、この言葉は農業経営者にとってはある意味で呪いのように機能するかもしれません。

人にとっての食べものとは、純粋な味だけで味わうことはできないものであり、関係性の中でのみ味わうことができるものだとするならば、より善いものを生産しようとする努力は本当に意味があるのでしょうか。
もちろんその努力や手間暇自体が関係性を育み、おいしさとして作用する可能性はもちろんあると思います。しかし、大した手間がかけられていない食べものであっても豊かな関係性によっておいしくなるという可能性も当然考えられますし、ある意味では絶対的においしいものを生産することよりもおいしいと感じさせる関係性をつくる方が早いし簡単であるということを考えると、農業経営者としては関係づくりに注力した方がより効率的に消費者に価値を届けることができるのかもしれません。

このことはある意味で、生産努力の否定となるのかもしれません。

もちろん両方を向上させることを目指すのが一番なのですが、私も80%くらいは人間は頭で食べていると思っているので、どちらか選択することを迫られたら、恐らく私はコンヴィヴィアリティを目指すのだろうと思いました。


2014年4月14日月曜日

コメみくじ














コメ展にはコメみくじという展示がありまして、米の文字が入っている漢字のハンコを選んで押すとその漢字に関連したお告げを授かることができるという面白い展示です。



このおみくじをやっていた時に外国人の方に説明してくれないかと頼まれたのですが、日本語でも解釈が難しいおみくじを拙い英語で説明するのが難しいこと難しいこと。しどろもどろになりながらも、相手の寛容さにも助けられ、なんとか国際平和に貢献することが出来ました。

うーん、やっぱり英語の勉強がもっと必要だ。




2014年4月13日日曜日

いろんなものが田んぼから生えてくる

コメ展のトークイベントに行ってきました。

ネイチャーフォトグラファーの内山さんは情緒的な方面から、新潟大学農学部准教授の吉村さんは科学的な立場から、田んぼと多様性の未来や大切さについて語るとても楽しいイベントでした。

今回一番の衝撃は本展ディレクターで司会の竹村さんの言葉のセンスが抜群にすごかったことです。展示などの言葉遣いからも感じていましたが、竹村さんの言葉自体はありふれた何の変哲もないごくごく日常的な言葉なのですが適切な場面で適切に使うことですっと心に入ってくるというか、腑に落ちるという表現が体感できるのです。

この言葉遣いの技法は、つながりのしくみづくりを目指す者にとってぜひとも会得したい能力だと思いました。

2014年4月12日土曜日

熊本ぷっちょ第4弾 かんきつ中間母本農6号

UHA味覚糖と熊本県がコラボしたぷっちょの第4弾を東京のコンビニで発見しました。

第4弾は「かんきつ中間母本農6号」という珍しい柑橘味だそうです。

この品種について全く知らないのでちょっと調べてみたのですが、

  • 機能性成分が多い
  • 栽培しやすい
  • おいしい
と、なかなか素晴らしい可能性を秘めた品種のようです。

現在はまだ試験段階で商業利用はされていないようですが、このぷっちょを期に知名度が上がれば柑橘の選択肢がまた増えるので素敵なことになると思います。