2014年6月25日水曜日

ロボットに知性を持たせるならロボットに知性があると信じるだけでいいのかもしれない

ZOOKEEPER(1) (イブニングKC)



心理学の世界では知性=感情という考え方が優勢らしいですが、この感情を持っているということをどう判断すればいいのでしょうか?

例えば、植物には恐らく人間と同じような類の知性はなく、ただ単純に自然環境に対して物理的・生理的に定められたプログラムに従って粛々と反応していると私は考えているのですが、ある種の傾向のある人は植物には感情があり人間が愛情を持って接すれば反応してくれると考えており、こういう人にとっては植物に知性があることを疑わないわけです。

こう考えれば、ロボットが知性を持つか持たないかという話はロボット自体ではなく、ロボットを認識する人間側の問題になってくるような気がするのですがいかがでしょう?


思考は拡張して、アミニズムにおける神の成り立ちなんかも、自然に感情や知性を見出したところから発生したのかもしれないとか考えると、なんだか楽しくなってきました。


『ZOO KEEPER』という漫画で「動物と通じ合えると思うな。たまたまだ」という感じのセリフが象の回にありましたが、動植物に感情があったとしても、それは人間と違う概念だろうし違う回路を通るのがほとんどだろうと私も考えています。仮に動植物にも感情があり気持ちが通じ合ったという気がしても、それはごくたまたま感情の回路が一致したか、勝手に自分の感情を相手に投影しているだけに過ぎないと思っています。

こういう考え方は科学的思考には大切だと思っているのですが、、こういう身も蓋もない考えはあんまり美しくないし、面倒くさいし、流行らないからモテないのが難点ですね。

2014年6月22日日曜日

スローフードって楽じゃない。手間ひまかけて、汗かいて。 だけど、そうやって辿り着いたひとくちには、本当の美味しさが満ちているのです。

タイトルはリトル・フォレストという漫画の作品紹介の一文です。
10年ほど前のちょっと古い漫画ですがとてもいい漫画なのです。

東北の田舎での自給自足的な生活を送る若い女性の食と日常を淡々と描いた漫画で、私はかなり気に入っているのですが、その漫画が今年の夏に映画化されるとのことです。映画版のサイトを覗いてみましたが、なかなか素敵な雰囲気で期待できそうですね。


さて、漫画読みの間では評価の高かった漫画ですので映画化されるのは不思議ではないのですが、なぜ10年も経った今なのかというのはちょっと気になります。

農業界隈に居ますと最近農業が注目されているような気がします。『銀の匙』や『のうりん』、『茄子 新装版』、『JA〜女子によるアグリカルチャー〜』など漫画だけでもいくつかの作品が最近出てきましたし、映画でも『ウッジョブ』が公開されたりしてますね。

こういう傾向を見ていると、田舎志向や自然回帰的な生活が求められてきているのかなと感じます。経済的な成長に限界を感じ、都会的な暮らしに息苦しさを感じる人が増えてきたことの反動なのかもしれませんね。

まあ、こういう作品は基本的にきれいな部分だけしか切り取らないので、実に魅力的に感じてしますが、現実にはやっぱり田舎には田舎なりの苦悩や息苦しさや問題があるわけで、遠くにあると大抵のものはきれいに見えるんだなと思いました。


ちなみに、私は「ぬてら」のエピソードが好きです。何回読んでも笑ってしまいます。


2014年6月18日水曜日

人は舌で味わうことはできないのかもしれない




この動画。衝撃的ですよね。

豚足や明太子を言葉でアメリカ人に食べさせる。

うまいと思えないものをうまいと思わせる。

言葉ひとつで世界が変わる。自分の言葉が未来を決める。



実に素晴らしい。

人は脳で食べているということを実証されたようです。


これを喜んでいいのか、悲しむべきなのか。

少なくとも、生産者を目指す者としては、おいしいものをつくることにこだわるよりも、ことばを重ねて想いを伝える方がおいしいと感じてもらえるとしたら、やっぱりそれはくやしいと思うのです。

もちろん、商売としては全く正しいやり方なので、効率的に伝えることができお互いの需要を満足させることができるならば、それはそれで万々歳なわけですが。

それでも私は、人間ってそんなに単純でいいわけがないだろうと願っているので、まずは舌で味わいたい、味わってほしいと思うのです。その上で、言葉や関係性を楽しみたい、楽しんで欲しいと思うのです。

ただどうしても、今は言葉の方が圧倒的に強い印象を受けます。この現状をどうやって私の祈りに近づくようにデザインできるかが私の課題なのです。

2014年6月9日月曜日

人は他人を結構いい加減に認識してるらしい

髪の毛をものすごく短くして何日か経ちましたが、会う人会う人にいちいち髪切った理由を聞かれるので面倒くさくて、髪を切ったことを若干後悔しています。まあそろそろこの面倒臭さもなくなるでしょうけどね。それにしても、なぜほとんどの人が「なにかやらかした?」と聞くのでしょうか?

それはさておき、髪を切っておもしろい発見がありました。

断髪後に初めて会った人たちは、①なんとなく私を認識した後、②違和感を感じて凝視し、③髪の毛が短くなっていることにここで初めて気づき、④その変化に驚くんですよね。普通に挨拶したあとにハッと目を見開いて驚くという、このタイムラグというか、その過程がすごく面白いです。
それが数人ならまだしも、ほぼすべての人達が同じような反応を見せます。もちろん反応を控えめに抑える人や、まったく驚きを隠さず根掘り葉掘り理由を聞いてくる人もいますけど。

こういう反応を見て、改めて「人は見たいものしか見ていない」のだなと感じました。

まあ、逐一周囲の些細な変化に対応していてはキリがないし、多様な個々を同一の概念として認識することができるというのが人間特有の能力ですからね。なんとなく雰囲気で円滑にコトが進むならそれはそれで無問題ですからね。
まあ、日々の細やかな移ろいを感じることができる感性というのも憧れますけどね。


しかし、こういう意外といい加減な認識で普段のコミュニケーションが成り立っているというのはおもしろいなー。

2014年6月8日日曜日

違う世界で違う言葉を使う人達と対話するための言葉があったらいいのにね

なにやら「これ見ても肉食べたい?」というツイートが話題のようですが、こういう輩やこういう輩に噛み付く繊細チンピラを見かける度に想像力や多様性やらについて考えさせられます。

ここまで想像力に欠けた発言を連発されると、動物愛護者へのネガティブな感情を増長させるための工作員じゃないかとむしろ逆に疑ってしまうのですが、残念ながら善意からの発言なんでしょうね。こういう方向性が間違った一方的な善意ってのはとてもやっかいで、賛同しない奴はみんな敵でみんな馬鹿だと思い込んでいるので、どうやってコミュニケーションをとればいいのか全然わかりません。

一番楽なのは飽きるまで放置しておくことなのでしょうが、飽きるまでに撒き散らす無邪気な善意も、その善意に噛み付く被害者意識も啓蒙意識も、あんまり社会を幸せにしないのでなんとかしたいのです。

こういう人たちと会話する言葉が欲しいなあ。

2014年6月5日木曜日

髪型と性格は結構リンクするかもしれない

一年半ほど伸ばしっぱなしにしていた髪型に飽きたので思いっきり切りました。
恥ずかしいので写真は載せませんが毛を刈られたアルパカくらい刈りました。
やっぱり短いと気持ちいいですね。風を頭皮で感じますね。

これまで何回かちょんまげが結えるくらい伸ばしたり、逆にスキンヘッドにしたりと割と髪型を大きく変えてるのですが、髪型が変わると性格というか心持ちも連動して変わる気がします。
少なくとも私の場合、髪を長く伸ばしてる時は割と保守的な性格になって慎重になるのですが、坊主に近いくらいに短いと割と積極的な性格になります。

髪型一つで性格が変わるし、それを通してみる世界も変わるんですよ。

人間って面白いですよね。

2014年6月1日日曜日

かないくん展と死と彼女とぼく



かないくん展に行きました。
谷川俊太郎が一晩で書き、松本大洋が2年かけて書いた絵本の原画展です。
小さな展示でしたがとても良かったです。

特にぐっときたのが下の写真にある黒板とノートなのですが、いろんな人が様々に死と向き合っていたのが印象的でした。

私は幸いな事にこれまで死と向き合う機会というのは祖母の時くらいだったのですが、祖母の時は気持ちの準備する期間が十分にありきちんと付き添うこともできたので、ごくごく当然のこととして受け止める事が出来ました。
しかし、ノートに書いている人の中には唐突に死と対面しなければならない状況に陥る人もいて、そういう人たちがどうにかして身近な死と折り合いをつけようとする過程が割と生々しくノートに綴られていました。そういう文章を読む中で、こういう風に無責任に匿名的に吐き出す機会が必要とされているということが、この企画展が支持される要因かもしれないと感じました。
黒板の方は割とカジュアルな死生観が書かれていて、特に小さな子どもは天国と地獄を信じているのに対し、大人は無になると考えている傾向があったのが面白かったです。
私はどう考えているのでしょうかね。無とは考えられないのですが、あんまり続いていくとも思えなくて、ぼんやりとどこかを漂うことになるようなイメージでしょうか。あんまり苦しいことはなさそうですが、あんまり楽しい感じでもない気がします。
うーん、あまり明確にイメージ出来ないのはまだ死を身近に感じられないからでしょうね。
だからこそ、まだ見慣れない死と向き合ういい機会でした。

ちなみにタイトルの『死と彼女とぼく』はとても素敵なホラー漫画ですが、あまり関係はありません。