2014年5月28日水曜日

考えよう。素晴らしい言葉がパッとひらめくほど、僕らは天才ではない。 『言葉の技術』



薄っぺらいと見せかけていい本でした。



この本は現役のコピーライターの方が書いたコピーの書き方の本です。
この本を要約すればタイトル通り「考えろ」の一言です。


僕らは、僕ら自身のオリジナルな言葉を探すには忙しすぎる毎日を送っています。だからこそ、オリジナルな言葉を時間をかけて探すコピーライターという商売が成り立つのだと思います。

本当は、タイトルに言葉の“技術”とあるように、コピーをつくるにはいくつかの方法というかテクニックがあって、時間さえかけてじっくりと考えることができれば、ちゃんと相手に届く言葉を見つけることができるはずなのです。“技術”なので訓練次第で言葉は、コピーはある程度まで上達するはずなのです。

でも、現実にはそんな時間はないし、ネットには沢山のそれっぽい言葉が溢れているので、ついついパッと思い浮かんだ、それっぽい、薄っぺらい言葉しか見つけられないことに絶望し、伝えることを諦めてしまうか、独り善がりになってしまうか、さっさとプロに任せてしまいます。

それが悪いこととはいいませんが、実際にやってみてわかりましたが、コピーをつくるということは結構楽しいものです。特に、届けたい人のことを考えて考えて、良いものができたらとても嬉しいのです。


さて、最後にコピーをつくるにあたってのヒントですが、
この本の最後に書いてありますが、コミュニケーションの要は送り手ではなく受け手であり、どういうリアクションをしてもらいたいのかを考えることが大事なのです。

最終的な目標は、言葉によって人と人との良い関係をつくることであり、そういうことを自覚していれば、何かに固執することもなくなり、自由にコピーをつくることができると思いました。











2014年5月26日月曜日

違和感を感じないことへの違和感

100円朝食で学生応援 学食、習慣づけへ提供」という記事を見つけたのですが
この写真に違和感を感じませんか?

写真・図版



この朝食提供の目的は、規則正しい生活の習慣化や講義出席率の向上だから直接的には関係ないのですが、どうしても私は配膳の位置に無頓着なことが気になるのです。もっとお上品な言葉を選ぶなら、こういう無頓着さにイラっとするのです。

副菜の位置は諸説あるようですが、ご飯と汁物の位置は一般的に決まってますよね?さらに箸の位置もナイフやフォークじゃあるまいし横に置くってのもいかがなものかと感じるわけです。

そもそも食事の作法やら文化やら形式は、長い歴史の中で合理的な理由で洗練されてきたものであると私は考えています。それにも関わらず、それに無頓着であるというのはちょっとどうかと思うのですよ。
特に、新聞記事が公開されるということは、大学の広報から記者、編集部、印刷のような感じで、とても多くの人が関わっているはずなのに、この写真がスルーされるというのは気持ち悪いし残念だと思うのですよ。



大体こんな配置だと食べにくいと思うんですけどね〜

2014年5月23日金曜日

顧客目線で考えるということ

毎月参加が恒例になってきた代官山マルシェの準備をしています。
今回は一緒にアメリカで農業研修をしてきた友人のミニトマトを売らせてもらうことになりました。

で、そのまま売らせてもらうのでは全然面白くないのでパッケージはこっちで任せてもらうという形にしたのですが、これが難しいんですよね。
儲けを考えるとあんまりパッケージにお金はかけられないし、そもそもどれくらいの量が適切なのかが想像できないのです。正確に言えば、いくつかのターゲットは想定できるのですが、本当にその仮定が正しいのか、想定通りに購入してくれるのか全然自信がありません。まあ売るまでわからないというのは当たり前のことですが。

というわけで今回も試行錯誤で頑張ります。



2014年5月21日水曜日

真の愛を知るために生きること

「神が愛と神が愛だと言うのなら、我々は神になるべきだ。さもなくば…我々人間はこれから先も永久に、真の愛を知らないままだ」


今日の特別講義の時に、講師の方に「あなたはなぜ生きているのですか」と問いかけられた時にぱっと思い浮かんだことが、『プラネテス』という漫画に出てくるセリフでした。

真の愛を知るために生きるというのは、私にとってかなり自然な考え方です。
この場合の愛が、何を指すかは人それぞれ解釈が違うと思いますが、私は真の愛とは全知であり、究極の到達点だと考えています。我々人間は神(=愛=全知)になるために命をつないできたんだと思います。そして私も人類が全知に近づくために生きているのだと思います。だからこそ科学コミュニケーションやコミュニケーションデザインに興味をもつのだろうし、無自覚に社会のリソースを浪費することに怒りを感じるのだと思います。

私たちが世界を正しく認識し、浪費していたリソースに方向性を与えることができたならば、それは人間を先に進めることができる大きな一歩になると信じているのです。そして、そのような確実な一歩を積み重ねていけば、私たち人間はいつか真実の愛にたどり着くのではないでしょうか。

だから私は一歩でも高く遠く進んだ世界を次の世代に引き継ぐために、頑張っているつもりなのですよ。

2014年5月19日月曜日

エクセル方眼紙からコミュニケーションを考えた

エクセル方眼紙ってご存じですか?

表計算ソフトであるはずのエクセルを方眼紙のように設定して、あたかも文書ソフトのように使う日本独自の、というかお役所独自のというか、とても不思議なフォーマットなのです。

こんなのとか




こんなのです。




私はこのエクセル方眼紙を大層憎んでおりまして、事実上データの修正や再利用ができない、バージョンが違うと100%に近い確率でレイアウトが崩れる、ワードやエクセルが使える人ばかり作業的・精神的被害を被るなど、百害あって一利なしの唾棄すべき悪習と考えております。

しかし、この感覚がこれを使ってる人には伝わらないんですよね。

エクセル方眼紙を使うことは未来へのコストであって、結果的に社会全体のパフォーマンスを下げるということを理解してもらうためにはどうすればいいのでしょうか。


まおゆうに「損得勘定は我らの共通の言葉。それは天と地の間で二番目に強い絆だ」というセリフがありましたが、社会的な損得勘定を可視化してわかりやすくプレゼンしたらいいのでしょうか。しかし、そもそもその損得勘定が通じるのならば既に説得できているはずですし、そもそもエクセル方眼紙なんて使わないと思うんですよね。恐らく彼らがエクセル方眼紙に固執する理由は「慣れ」であり、それっぽく見えて(彼らに直接的な)問題が起こったことがない(もしくは気づいていない)という、目の前の損得勘定だけがそこに働いているのだと思われます。

つまり、いくら社会のコストだよと言ったところで本人にはコストとして感じられないのだから、ワードを使おうとする動機がないんですよね。ということは、やはり本人の損になるような負のデザイン、もしくはワードを使ったほうが得するような直接的でわかりやすい正のデザインすることが大切なんでしょうね。そして、負のデザインは後ろ向きで面白く無いので、やはり自主的に全体として良い方向へ向かうような前向きなデザインを考える必要があるんだと思います。


でも、このデザインが難しいんだよなー。
コミュニケーションを通して共感しながらつくり上げていくってのが理想なんでしょうけどねー。けどねー。

おや、こんな時間に誰か来たようだ。


(日記はここで途切れている)

2014年5月18日日曜日

小学校の朝礼の動画を見つけて思ったこと

とりあえず動画を御覧ください。








どう思いました?



私はすごく気持ち悪くなりました。

こういう無邪気な同調圧力は悪意がない分厄介で手に負えないと思うのです。もし、こういうことが苦手な生徒がクラスにいたとしたらどうしましょう。「いいこと」だから、「将来の役に立つ」だろうから、恐らく拒否権なんて存在しないはずです。嫌だ、苦手だ、気持ち悪いという感情すら理解されないんじゃないかと思います。もしくは、参加を拒否することは、和を乱すとか参加者を否定するとか言われて糾弾されそうだなと思いました。

少なくとも私は、こういう意味のない挨拶や掛け声は理解できないので苦痛ですし、大声を出すのも嫌いですからやりたくありません。そして、これまで頑張って薄かった面の皮を厚くしてきたので、今なら堂々と拒否することもできます。

でも、これを嫌だと思っても拒否できない子供がいたらと思うと居た堪れないのです。そして、そういった想像力を感じさせない指導者や子どもたちや投稿者が気持ち悪いと思ったのでした。

もちろん、私はこの行為を否定しているわけではありません。個人的には全然好みではありませんしどんな手段を行使しても絶対に拒否したいとは思いますが、やりたい人たちが集まって勝手にやるのは全然構いませんし、それを否定すべきではないと考えます。毎朝床をどんどん鳴らして大声で騒ぎやがってうるせえなあ、くらいは思うでしょうが我慢します。

ただ、そこに拒否権が存在しないとしたらそれは否定されるべきだと思うのです。個人の意志を無視してまで強制する合理性が感じられないことを許してはいけないと思うのです。



まあ、もちろん私の感想は動画の情報のみから邪推した感想ですので、実際には苦手なこどもには配慮されているのかもしれません。クラスのみんなは心からやりたくてやってるのかもしれません。

でも、そうだとしたら、それはそれで気持ち悪いクラスだなーと思いました。

2014年5月17日土曜日

たくさんの点は線になって

最近いろんな点がつながってきたなーと感じています。

これまで随分寄り道をしてきましたが、その全てが意味のある点になってきた気がしてるような、そう信じたいような、そんな感じです。

そのうち、いくつもの線が円になって遠く彼方まで響いて、全てをつなげることができればいいなと思いました。

2014年5月14日水曜日

やっと世間が野崎まどに追い付いてきました

品川のあおい書店で野崎まどフェアやってました!

好きな作家が推されてると嬉しいですね!

というわけでちょっとそれぞれについて一言紹介を。
そのうち全部についてじっくり紹介したいですね。
ちなみに順番は出版順です。


『[映]アムリタ』
映画を作る大学生の話。と見せかけたSF的ホラー小説。
最後のシーンなんて何度読んでも背筋が寒くなります。

『舞面真面と仮面の女』
遺産をめぐるミステリー小説。って書くと面白くなさそうですね。
でも野崎まどお得意の大どんでん返しが楽しめます。

『死なない生徒殺人事件』
永遠の命をもつ女子学生をめぐるミステリー。
何のために永遠に生きましょうか?

『小説家の作り方』
創作とはなにかに迫るSF。じゃなくてやっぱりラノベですね。
作者のキャラ理論が面白いです。

『パーフェクトフレンド』
友達ってなんだろうと考えさせられるラノベ。
友達も魔法も悪魔も同じカテゴリーなのですよ。

『2』
この世で一番面白い映画を作るお話。
と見せかけて実は単なる壮大な恋愛小説だったと3回位読んで気づきました。
上記5冊を読んでいないと十分に楽しめない鬼畜仕様なのでお気をつけ下さい。
野崎まど第一部完。

『なにかのご縁』
野崎まどの新境地、通称白まど。なにが白いかは読んでからのお楽しみ。
ふわふわしたファンタジーも書いてしまう著者の幅の広さには驚愕。

『野崎まど劇場』
真剣にふざけた短篇集。AA使った小説はじめて見ました。
個人的に没作品集が好き。

『know』
ハヤカワ文庫から出版のSF小説。評価もかなり高いようです。
最後の一文が秀逸なんですよ。

『ファンタジスタドール イヴ』
一応、萌系アニメのノベライズ版。でも本作には萌え要素は全くなし。
これ読んでもどんなアニメか全然想像できません。



2014年5月13日火曜日

相撲は神事

初めて大相撲を生で観ました。
正確には先日のニコニコ超会議場所を立ち見でちらっと観たのですが、まあそれはノーカウントで。

とりあえず、格闘技としてすごかった。
私は格闘技をやっていたのでなんとなくわかるのですが、あの人達相当鍛えてますよ。あんな動きやあんな耐久性を普通の人間でも訓練しだいで獲得できるのかと思ったら感動してしまいました。

あとはやっぱり、相撲は神事ということを心で理解しました。
取組中もそうですが、その前後での所作の端々に、神道的な、信仰のようなものが感じられます。あまり具体的に指摘はできないのですが、恐らく力士たち自身もあまり意識していないと思うのですが、やはりあれは神事から発展してきたんだろうなと思わせられました。
特に最後の弓取り式なんて、わかりやすいくらい神事ですよね。序盤でカメラの電池が切れたので写真が撮れなかったのが残念ですが、本当に弓取り式は鳥肌が立つくらいすごかったです。


こんなに面白いものが未だに日本に残っていることに感謝した一日でした。


2014年5月4日日曜日

「安全」でも得られない「安心」 『安全と安心の科学』

この本は人間賛歌の物語だと思います。

人間の可能性を信じて、本当に安心できる安全な未来を目指すために、私たちは何ができるか。それを考えるために、小さいけれど確実なものを丁寧に丁寧に積み重ねていくその方法をこの本は教えてくれます。

人間のもつ「リスクに立ち向かう」営みを知って下さい。もちろん私たちの力は知れたものです。先の震災でも、毎日どこかで起こっている交通事故でも、そのことを思い知らされています。科学や技術は私たちに「絶対安全」を約束してはくれません。

それでも、全てを諦めるのではなく、できることを探し出し、一歩でも前進しようとすること、そして時に人間の力の卑小さと自然の力の大きさの前に頭を垂れること。

この繰り返しこそが、人類が刻んできた歴史そのものとも言えると思います。

私も、著者と同様に、人間のそうした存在の形を受け入れ、また信じたいと思います。



2014年5月3日土曜日

私たちは質の劣る高水準の暮らしを強いられている? 『美 「見えないものをみる」ということ』

『美 「見えないものをみる」ということ』とはどういうことでしょうか?

私たちはどんなものを美しいと感じるのでしょうか?

真善美という言葉がありますが、この3つの価値は全てが等価で必要十分なのでしょうか?

すべてのものごとがリッチであるためには、なにが必要なのでしょうか?


この本は、このような普段は意識しない、面倒くさくて考えない、万人が納得する答えが出しにくいことを考えさせられる本です。その過程は、日本人としての、世界市民としての、自分自身としてのアイデンティティを確認することでもあるような気がします。とても難しくて面倒でしんどい作業ですが、これからの世代を引き継いでいく者としての責任があると思うのです。


そんな中で、おそらくは正しいだろうとわかったことはあります。

それは「知」や「教養」といった、判断するための判断基準が絶対に必要だということです。

もちろん、そのような判断基準は一朝一夕には身に付きません。
どのように身に付ければいいかも検討がつきません。
そもそもどのような知や教養なのかすらわかりません。


Q:さて、そんな時はどうしましょう?

A:じゃあ、明日また考えよう Sleep it over.


2014年5月2日金曜日

何で、、、何でよりによって料理中のサンマがああ 『幻想ギネコクラシー』

この本は、「身も蓋もないお話を描かせたら当代随一」との帯の煽り文句にもあるように、本当に身も蓋もないお話ばっかりの漫画なんですけども、とてもいいんですよね。

他の作品もなかなか素晴らしいのですが、この作品は特にとても自由に楽しんで書いているということが伝わってきて、読んでるだけで楽しくなる漫画なのですよ。もちろん好き嫌いがありますし、この人のマンガ自体が一般受けはまずしないだろう作風なので、これもあんまりおすすめはしないのですが。それでもこの作品は、著者の魅力を凝縮した一冊だと断言できます。すべての方面に突き抜けてぶっ飛んで戻ってこれなくなった漫画です。


そんな全くおすすめできない漫画ですが、久しぶりにいい漫画を読んだなと不覚にも思ってしまったため、つい紹介してしまいました。

最後に、重ね重ね申し上げますが、この人の漫画は漫画読みにしかおすすめできません。青年漫画という表現に慣れていない初心者の方は決して手を出さないようにして下さい。不快になっても、深みにハマっても、責任は持てませんので。


幻想ギネコクラシー 1

2014年5月1日木曜日

フードを粗末に扱う、という最小の暴力で最大の悪人ぶりを表現できる 『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』

『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』は物語の演出として登場するフードが効率的に印象的に無意識的に鑑賞者をある方向へ導くという仮説を理論化し、もっと深く物語を味わおうと試みるという非常に興味深い考察をまとめた本です。


バナナの皮を踏んで滑って転ぶ、トーストを咥えて走ると曲がり角で素敵な異性とぶつかる、おっちょこちょいが膨らますガムは必ず割れて顔面に張り付くなどなど、どこで読んだか何で観たかは思い出せないけれども絶対知っていると思えるような食べもののシーンはありませんか?

著書ではこういう食べものや食事のシーンをステレオタイプフードと呼んでいますが、著者の提唱するフード理論にはそのステレオタイプフードが非常に重要な役割を果たすのです。


さて、フード理論は基本的に以下の3つの原則から成り立ちます。

1:善人は、フードをおいしそうに食べる
2:正体不明者は、フードを食べない
3:悪人は、フードを粗末に扱う

それぞれに科学と心に基づいた説得力のある論拠があるわけですが、それはぜひ本書を読んでみて納得してみてください。

この本を読むことで、これから鑑賞することになる全ての作品において、食べものや食事のシーンに見入らざるを得ないという呪いを受ける危険性はありますが、それ以上にそれぞれの作品に対する深い理解や感動を得ることができると思います。