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2014年7月7日月曜日

よろこびやしあわせとしての学びを大切にしたいですよね。

先日、わくわくする学びの場を探求するという素晴らしいコンセプトの勉強会に参加してきました。
素敵な古民家の小さな一室で、適当に座って講義を聞くという寺子屋風でした。

今回は宇宙には果てがあるかというお話と、物理学者が学会で発表する内容を感じてみようという二本立てでした。

宇宙の話は本当に面白くて、果てがなくて、人の感覚では納得しがたいものがたくさんあるようです。それでも、人間が長い歴史の中で積み上げてきた科学の叡智を総合して論理で詰めていくとこういう風になるという科学の営みは聴いているだけで知的好奇心がガンガン刺激されるしあわせな時間でした。

2コマ目の物理解題と題された時間では、まず物理学者が学会で発表する内容をそのままダイジェストで発表し、あとから解説してみようという試みでした。やっぱり本物の専門家はすごかったです。「非可換空間上の重力理論におけるソリトン解について」なんてタイトルからし推測すらできません。日本語をしゃべっているのに全く理解できないけれどもなんだか面白そうなことをしゃべっているのがわかるという不思議な状況は初体験でした。


やっぱり勉強って面白いです。



2014年6月18日水曜日

人は舌で味わうことはできないのかもしれない




この動画。衝撃的ですよね。

豚足や明太子を言葉でアメリカ人に食べさせる。

うまいと思えないものをうまいと思わせる。

言葉ひとつで世界が変わる。自分の言葉が未来を決める。



実に素晴らしい。

人は脳で食べているということを実証されたようです。


これを喜んでいいのか、悲しむべきなのか。

少なくとも、生産者を目指す者としては、おいしいものをつくることにこだわるよりも、ことばを重ねて想いを伝える方がおいしいと感じてもらえるとしたら、やっぱりそれはくやしいと思うのです。

もちろん、商売としては全く正しいやり方なので、効率的に伝えることができお互いの需要を満足させることができるならば、それはそれで万々歳なわけですが。

それでも私は、人間ってそんなに単純でいいわけがないだろうと願っているので、まずは舌で味わいたい、味わってほしいと思うのです。その上で、言葉や関係性を楽しみたい、楽しんで欲しいと思うのです。

ただどうしても、今は言葉の方が圧倒的に強い印象を受けます。この現状をどうやって私の祈りに近づくようにデザインできるかが私の課題なのです。

2014年6月9日月曜日

人は他人を結構いい加減に認識してるらしい

髪の毛をものすごく短くして何日か経ちましたが、会う人会う人にいちいち髪切った理由を聞かれるので面倒くさくて、髪を切ったことを若干後悔しています。まあそろそろこの面倒臭さもなくなるでしょうけどね。それにしても、なぜほとんどの人が「なにかやらかした?」と聞くのでしょうか?

それはさておき、髪を切っておもしろい発見がありました。

断髪後に初めて会った人たちは、①なんとなく私を認識した後、②違和感を感じて凝視し、③髪の毛が短くなっていることにここで初めて気づき、④その変化に驚くんですよね。普通に挨拶したあとにハッと目を見開いて驚くという、このタイムラグというか、その過程がすごく面白いです。
それが数人ならまだしも、ほぼすべての人達が同じような反応を見せます。もちろん反応を控えめに抑える人や、まったく驚きを隠さず根掘り葉掘り理由を聞いてくる人もいますけど。

こういう反応を見て、改めて「人は見たいものしか見ていない」のだなと感じました。

まあ、逐一周囲の些細な変化に対応していてはキリがないし、多様な個々を同一の概念として認識することができるというのが人間特有の能力ですからね。なんとなく雰囲気で円滑にコトが進むならそれはそれで無問題ですからね。
まあ、日々の細やかな移ろいを感じることができる感性というのも憧れますけどね。


しかし、こういう意外といい加減な認識で普段のコミュニケーションが成り立っているというのはおもしろいなー。

2014年6月8日日曜日

違う世界で違う言葉を使う人達と対話するための言葉があったらいいのにね

なにやら「これ見ても肉食べたい?」というツイートが話題のようですが、こういう輩やこういう輩に噛み付く繊細チンピラを見かける度に想像力や多様性やらについて考えさせられます。

ここまで想像力に欠けた発言を連発されると、動物愛護者へのネガティブな感情を増長させるための工作員じゃないかとむしろ逆に疑ってしまうのですが、残念ながら善意からの発言なんでしょうね。こういう方向性が間違った一方的な善意ってのはとてもやっかいで、賛同しない奴はみんな敵でみんな馬鹿だと思い込んでいるので、どうやってコミュニケーションをとればいいのか全然わかりません。

一番楽なのは飽きるまで放置しておくことなのでしょうが、飽きるまでに撒き散らす無邪気な善意も、その善意に噛み付く被害者意識も啓蒙意識も、あんまり社会を幸せにしないのでなんとかしたいのです。

こういう人たちと会話する言葉が欲しいなあ。

2014年5月28日水曜日

考えよう。素晴らしい言葉がパッとひらめくほど、僕らは天才ではない。 『言葉の技術』



薄っぺらいと見せかけていい本でした。



この本は現役のコピーライターの方が書いたコピーの書き方の本です。
この本を要約すればタイトル通り「考えろ」の一言です。


僕らは、僕ら自身のオリジナルな言葉を探すには忙しすぎる毎日を送っています。だからこそ、オリジナルな言葉を時間をかけて探すコピーライターという商売が成り立つのだと思います。

本当は、タイトルに言葉の“技術”とあるように、コピーをつくるにはいくつかの方法というかテクニックがあって、時間さえかけてじっくりと考えることができれば、ちゃんと相手に届く言葉を見つけることができるはずなのです。“技術”なので訓練次第で言葉は、コピーはある程度まで上達するはずなのです。

でも、現実にはそんな時間はないし、ネットには沢山のそれっぽい言葉が溢れているので、ついついパッと思い浮かんだ、それっぽい、薄っぺらい言葉しか見つけられないことに絶望し、伝えることを諦めてしまうか、独り善がりになってしまうか、さっさとプロに任せてしまいます。

それが悪いこととはいいませんが、実際にやってみてわかりましたが、コピーをつくるということは結構楽しいものです。特に、届けたい人のことを考えて考えて、良いものができたらとても嬉しいのです。


さて、最後にコピーをつくるにあたってのヒントですが、
この本の最後に書いてありますが、コミュニケーションの要は送り手ではなく受け手であり、どういうリアクションをしてもらいたいのかを考えることが大事なのです。

最終的な目標は、言葉によって人と人との良い関係をつくることであり、そういうことを自覚していれば、何かに固執することもなくなり、自由にコピーをつくることができると思いました。











2014年5月19日月曜日

エクセル方眼紙からコミュニケーションを考えた

エクセル方眼紙ってご存じですか?

表計算ソフトであるはずのエクセルを方眼紙のように設定して、あたかも文書ソフトのように使う日本独自の、というかお役所独自のというか、とても不思議なフォーマットなのです。

こんなのとか




こんなのです。




私はこのエクセル方眼紙を大層憎んでおりまして、事実上データの修正や再利用ができない、バージョンが違うと100%に近い確率でレイアウトが崩れる、ワードやエクセルが使える人ばかり作業的・精神的被害を被るなど、百害あって一利なしの唾棄すべき悪習と考えております。

しかし、この感覚がこれを使ってる人には伝わらないんですよね。

エクセル方眼紙を使うことは未来へのコストであって、結果的に社会全体のパフォーマンスを下げるということを理解してもらうためにはどうすればいいのでしょうか。


まおゆうに「損得勘定は我らの共通の言葉。それは天と地の間で二番目に強い絆だ」というセリフがありましたが、社会的な損得勘定を可視化してわかりやすくプレゼンしたらいいのでしょうか。しかし、そもそもその損得勘定が通じるのならば既に説得できているはずですし、そもそもエクセル方眼紙なんて使わないと思うんですよね。恐らく彼らがエクセル方眼紙に固執する理由は「慣れ」であり、それっぽく見えて(彼らに直接的な)問題が起こったことがない(もしくは気づいていない)という、目の前の損得勘定だけがそこに働いているのだと思われます。

つまり、いくら社会のコストだよと言ったところで本人にはコストとして感じられないのだから、ワードを使おうとする動機がないんですよね。ということは、やはり本人の損になるような負のデザイン、もしくはワードを使ったほうが得するような直接的でわかりやすい正のデザインすることが大切なんでしょうね。そして、負のデザインは後ろ向きで面白く無いので、やはり自主的に全体として良い方向へ向かうような前向きなデザインを考える必要があるんだと思います。


でも、このデザインが難しいんだよなー。
コミュニケーションを通して共感しながらつくり上げていくってのが理想なんでしょうけどねー。けどねー。

おや、こんな時間に誰か来たようだ。


(日記はここで途切れている)